『バカの壁』の養老孟司先生。鎌倉在住で箱根に昆虫館たる別荘を持っていらっしゃる。最近のわたくしの往来と似ている。ありがたき。まさか、こちらの著書に芸事について書かれているとは全く予期していなかった。「日本の古典芸能を習ったら、本当の個性がどういうものか、よくわかります。なぜなら、師匠のするとおりにしろと言われるからです。茶道も剣道も同じです。謡を習うなら、師匠と同じように、何年もうなる。同じようにしろという教育をすると、封建的だとか言われましたから、こういう教育は随分廃れてしまいました。でも十年、二十年、師匠と同じようにやって、どうしても同じようになれないとわかる。それが師匠の個性であり、本人の個性です。そこに至ったときに、初めて弟子と師匠の個性、違いがわかる。そこまでやらなきゃ、個性なんてわかりません。他人が真似してできるかもしれないことなんて、個性とはいえませんから」地唄舞を習い始めたころ、姉弟子と二人で、真夏のクーラーのない6畳の和室で、1時間ひたすら歩くというすり足の練習をした。歩くという動作である。日常行っている動作が、難しい。師匠のように、足を動かせない。楽にならない。考えすぎると、足が前に出ない。しかしながら、頭を使って、意識する。ほかにどうすることもできない。ずいぶん時間を要した。日常の歩くという動作ひとつに、長い年月を費やした。頭と意識をやめるに至ったとき、師匠とはちがった、わたしという個体がつくりだす、すり足が完成した。合掌。