「能の静の美学、無表情の美学は、それ自体は一種の虚無を表しているようにみえるが、それはけっして無気力を意味するものではなく、ひとつの迫力を秘めた禅の明るさが支えとなっている。能面が死のような静の表現の中に、かすかな、しかも決定的瞬間の動きを秘めていることは、能の幽玄の美学をそのまま象徴しているといえよう。」
「井上流の舞には、もとからせりふがおへんし、表情もしまへん。けど、表情をせんといふても、顔は生きてんなりまへん。死んでいては、舞にはなりまへん。ことさらに表情はしまへんが、内面的な心情を表現すことを忘れてはなりまへん。『佐多女芸談』が述べている上方舞には、やはりもと能の舞から出た舞の精神の流れがあったことがわかる。」
では、そのお能の心得に、世阿弥の『動十分心、動七分身』という言葉がある。心を十分に動かして、身を七分に動かす。身体の表現を押さえることによって、心が無限の可能性を包含することになる。
家元花崎杜季女門下生の会が一昨日新ばし金田中で開かれた。わたくしの弟子2名参加した。私が申すのも手前味噌であるが、成長しているのが嬉しい。この2人は、何を感じたのであろうか。